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たっちゃんだって歩き始める

 たっちゃん1歳7か月 with ダウン症。歩いた。

 押し車のおもちゃを買って、試しに立たせてみたら、機嫌よく歩き出した。びっくり。だけど、一歩が大きい! 笑っちゃうくらい足を開いて、縦にも横にも、それ無理でしょーと思いながら見てると、ようやく足が前に進んで、次の一歩。

 それにしても、こんなに早く歩くようになるとは思わなかった。2歳代か、3歳に突入してからかと思ってたから。早ければいいってもんでもないんだろうけど。療育に通うのも辞めてしまったし。お母さんは、自分が塾に通うのが嫌で自習して何とか大学受験も乗り切った方だから、療育でたっちゃんが嫌々リハビリして泣きべそ顔してるのを見て、なんだかなーと思ってしまったのだ。育児放棄に該当するんだったら困るんだけど。だいたい1歳くらいの子なんて、ご本人のペースで食事したり遊んだりしてたら一日何てあっという間で、お昼寝もするし、療育に連れて行こうとすると生活のリズムが乱れてしまうのも嫌だった。毎日の基本的な生活が、成長発育に一番大切だと信じているから。

 自慢気にニコニコ歩いているたっちゃんを見ると、子どもって素晴らしいなと思う。伸びていく力。それを喜ぶ心。まあ、押し車を抑えておいてあげないと、速く進み過ぎてついていけなくて転んで泣いてしまうのだけど。

 この一生懸命に生きている小さくてかわいい人を、神様、どうか笑顔の絶えない人生で包んであげてください。お母さんは、ただただ、それを祈っています。

 しかしお母さんはちょっとのんびりなところがあるから、もっと早く押し車買ってあげれば良かったのかな。まあ、先を急いでもしょうがないか。たっちゃんは、急がない人生を選択したのだから。

 

 

お姑さんのこと

 夫なんだか、元夫なんだか、とにかく子どもの父親には、いろいろと思うところがある。だけどその母親については、私の姑だった人については、あまり意識してこなかった。あの人には呆れる。あの人が自分の息子にもうちょっとこうしてくれれば良かったのに。くらいに思ってきた。

 何のきっかけがあったのか、わからない。私の中で、何かが結晶して、私はその女に、久しぶりに電話をかけた。最後の確認のつもりで。

 「もういい大人だから、結婚も離婚も任せています。」子どもの父親の母親は、そう言った。「じゃあ、あの人はもう父親なんだから、あの人のことをあなたが使わないでください。」私は、そう言った。「最近、会ってないですよ。連絡も取ってないですよ。」子どもの父親の母親は、田舎ののんびりした口調で、そう言った。は?何嘘ついてるの?咄嗟に私は、その矛盾を正した。子どもの父親の母親は、急に激しい口調になって、早口で、「今後はしませんから、ご心配なく」そう言って、「お友達と待ち合わせしてるので、じゃあ」と言って、こちらからかけた電話を切った。

 その後、高齢の女性を仕事で相手にするとき、生まれて初めての感情に突き動かされて困る。私の仕事は、高齢者をお客さんにすることが多い。今までは、人生の先輩として尊敬すべきと思ってきた。仕事とはいえ、せっかく接する時間、お互いに楽しく過ごしたいという気持ちで会話を心掛けてきた。それが、いい加減という愚かさ、弱さという罪が目について、透けて見えるかのごとくに投影されて、早くこの人から離れたいという気持ちが頭の中を支配するようになってしまった。

 私の中の性善説が崩れ去り、年上の人は尊敬すべしという子どもの頃から染みついた考えも吹き飛ばされ、「葬式にも行きませんから」という何かドラマか小説ででも覚えたようなセリフを、口にしてしまった。子どもの父親に、経緯を説明した上で。自分が、一生経験することのないとなぜか思い込んでいた、自分の人間性を下げるような関係性。でも、堕ちていくわけにはいかない。私は、お母さんとして、凛として生きていかなければいけない。

 あのような人を母親に持ち、育てられてきた人と、どうやって付き合っていけばいいのだろう。最愛の子どもの、父親として。人は変わることができるのだろうか。大人と言われる年齢になってから。