よく歌い、よく笑う。

2015年10月に生まれた突然変異体(ダウン症)ニャタは育っています

2人目の子どもはいつ?

 私はそんなに強くないし、正義の人でもない。結婚した時に不妊症の可能性は考えたけど、流産や早産についてはぼんやりとしか心配しなかったし、出産時のトラブルについては「事故もあるかもしれない」程度にしか思っていなかった。出生前診断については、命を選んだり操作したりということに違和感を感じて、検査の合併症で流産する確率も受け入れられなくて、周りに後押ししてくれる人や、私の通っていた産院では受けない人も多いという話もあって、希望しなかった。それが正しかったのかどうか、正しいとか正しくないとかいう話なのか、もう一度やり直せるならどうするか、でも時間を巻き戻すことなんて幸い決してできないし、もやもやが残りながらも心の中に落ち着きどころをもっている。

 「検査は受けとかなきゃ。残念だったわね」と言ってから、さすがに言い過ぎだと思ったのか「ちょっとね」と言い足した、職場の中年女性。産休明けの仕事復帰に向けて、様子見と引き継ぎに行った時、今後長きにわたって「子どもはどう? 歩くようになったでしょ、『ママ』って言うの?」とか聞かれても困るし、「無事に生まれて、私は元気だし、子どもも今は普通に生活しています、ダウン症候群です」と言っておいたら、そんな風に言われた。私はそんなに強くないし正義の人でもないから、自信を持つにはまだ子どもの成長とともに私にも時間が必要だし、これからはこういう人は避けていくのが賢明かなと思う。でも、はっきり物事を言う人は嫌いじゃない。子どもができたからには、将来のことを夢見て、孫の誕生まで思ってしまうのはたぶん生物としての本能としておかしくないと思うし。この子はかわいがって育てれば全然良くて、ただきょうだいを迎えて賑やかな家族の輪を作りたいとか、下の子では私たち夫婦も「世代を超えられていく体験」をするだろうかとか、思う。そうすると、この中年女性を、どこまで非難できるのかわからない。

 2人目の子どもって、何歳差で産むのがいいんだろう。計画通りには行かないことだろうけど。正直、次に妊娠したときには、また出生前診断の問題に直面するし、この子を否定することは絶対にしたくないし。すごく怖いのは、妊娠出産が私の体に与えるかもしれないダメージを今回知ってしまったことと、何とかなるだろうでは何ともならないこともあるかもしれない家族の体力や経済力の問題もあるし、それにいろんな赤ちゃんがみんながんばって生きているんだっていうこと。育児はどうなるんだろう、2人目が生まれると、子育ての大変さは倍どころじゃなく大変になるって聞くし。私が仕事を辞めるのはたぶん当然で、そうすると私のメンタル面とか我が家の経済状況は大丈夫なのだろうか。でも、今2人目の希望を諦められないのは、これも私の生き物としての本能で、それが私をここまで理屈を超えて生かしてきたんだと信じたい。